読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

まんなか

こころの真ん中に届くこと、書きたい。

女が女を愛する時

まなつさん(id:dokodeneru)の、「今夜、どこで寝る?」というブログと、ほとけさんのムンク「叫び」アイコンのブログ

http://hotoke-no-face.hatenablog.com/

を、

はせおやさいさんのおすすめ記事で知り、読んでいる。

http://hase0831.hatenablog.jp/entry/2017/01/27/114519

 

まったくちがうブログなんだけど、ふたりとも女性で、同性として、同性への目線がどこか共通しているように思う。わたしも女性であり、そのことに共感を覚える。ただ勝手に、覚えている。

共通とか共感とか、大ざっぱで雑な言葉だ。違う人間だから、そんなに一緒の気持ちになったり理解はできない。とはいえ、案外単純に簡単に、スッと通じる瞬間があることも知っている。それが思い違いであるとしても。似て非なるものだとしても。

 

同性への目線、それは、安心感と憧れと好意で、すこし同性愛的なものだ。

まなつさんは、同性愛者であることを公言しておられる。かつては異性を愛したが、自分の性向を理解してからは、同性と恋愛をしている。

ほとけさんは、異性愛者であるとブログに書いてある。しかし、美しい友人と一緒に行動するときのドキドキや憧れを書いた文章は、ちょっと同性愛的だ。そしてその気持ちは、わたしにもあるのでよくわかる。わたしは異性愛者である。

 

なぜ同性を好きになるのか。それは個性であり、個人的嗜好なのだろうけれど、女性に関していえば、男性が怖いとか嫌だというのはあると思う。確実に一因として。

まなつさんは実父に捨てられ、義父に暴力を受けていたという。

どんなに怖く嫌だったことだろう。

男に痛めつけられたら、男を愛することは難しいと思う。ごく普通に怖いし身がすくむことだろう。そんな男ばかりでないのはわかっていても。

男に暴力を受けた人が全て同性愛者になるという話ではない。でもなりやすくはなると思う。その気持ちはとてもよくわかる気がする。

とくに父親や義父や兄弟など家族に暴力を受けた場合は傷が深いだろう。その間、母親は何をしていたのかと思う。守ってくれなかった女も嫌いになると思うが、とりあえずは直接自分に暴力を振るったり抑圧した男という生き物そのもののことが、心底嫌になるのではと思う。

 

わたしは中学生の頃、知らない男に、暴力を受けた。傷害及び暴行未遂、未成年に対するいたずら未遂、に該当すると思う。恐怖で固まってしまったが、なんとか絞り出すように声を出し必死で抵抗したので、犯人は逃げた。レイプや性的ないたずらは免れた。

大怪我もせず、腹を殴られたくらいで未遂だったので大事に至らなかったが、警察に通報し、すこし学校を休んだ。

のちに犯人は捕まり(犯行を繰り返していた)、面通ししますか?と言われたが、断った。会うのは怖いし、思い出したらどうにかなりそうだったからだ。もう一度思い出すくらいならわたし自身が消えてしまいたいと思った。

未遂ですらそう思うのだから、されてしまった人はどんなに辛いだろう。

 

そういう目にあってからは、父親もクラスメートも見ると吐きそうになった。男が嫌になってしまった。問答無用で。

そして自分自身が女であるということはどういうことなのか、折につけ考えてしまうようになった。

それまでは自分が女であるということは気にしてなかった。わたしは眼鏡をかけた地味な中学生で、家も貧しく、身なりを可愛くしようとかそういうのとは縁がなかった。

それなのに、そういう対象になる、ということは、わたしがどんな人間であれ、性犯罪をするような男にとっては女という記号であればどうでもいいのだ、と思った。わたしが女で、たまたま1人で行動していて、(運動が苦手なわたしは校内マラソン大会でビリになりたくなかったので早朝ジョギングをしていた。)弱そうだったから狙ったのだ。そう思った。

ものすごく悔しかった。

父親に、被害にあったことは犬に噛まれたと思って忘れろ、と言われたのもショックだった。もののたとえで、言いたいことはわかるけれど、犬に噛まれるのとは全然わけが違うことだ。でもきっと男である父にはわからないんだろうなと思った。

 

新聞やメディアでレイプとか痴漢とかの文字を見るのも、漫画や小説や映画などでそういうシーンを見るのも、耐えられなかった。今でもそれに近い部分はある。

異性同性に限らず、人が暴力や脅しで痛めつけられることは断固許せない。フィクションだからと許容できない。現実ならなおのことだ。

 

話を戻す。同性が同性を傷つけることだってもちろんある。でもそこまで思ったら、絶望が深くなり、生きていくのが辛くなる。

とりあえず、女は女をレイプしない。殴らない。バカにしない。女は優しい。女同士だから分かり合える。そう思う方が生きやすい。わたしは。

必ずしもそうとは限らないのだけれども。女が優しいなんてとくに。優しい人もいれば優しくない人もいる。それは男女同じことだ。

 

話がずれてしまうのだが、見かけを重視されるのも女性がはめられる枷だ。まなつさんはなりたかった仕事に努力してやっと就き、がんばっていたのに、同僚女性に陰でおっぱいちゃんと呼ばれていることを知り、会社を辞めた。その気持ちは、すごくわかる気がする。

百歩譲って、相手は褒めてるつもりだったのかもしれない。羨ましかったのかも。でも、そんなの知るか!である。

見かけで呼ぶな。判断するな。

たとえばおデブちゃん、ハゲくん、と呼ばれたら誰でもムッとするのではないだろうか。では、スマートちゃん、フサフサくんだったら喜ぶか?そんなことないと思う。体のパーツ、見かけで呼ばれて嬉しい人がいるのだろうか。いや、いない。相手に悪気があろうがなかろうがそんなことは知らない。失礼だと思う。

わたしはもし体のパーツや見かけで呼ばれたらその人からはスーッと離れる。軽蔑する。

 

人を見かけで判断し、パーツであだ名をつけるのは幼稚だ。いい大人なのに信じられない。そんな人と一緒に働くなんて無理だ。

人はその行い、言葉、思考、生き方で判断されるべきではないかと思う。

性別人種年齢貧富生まれ育ち家業職業体格顔能力思考好き嫌い、みんな違って当たり前。もし全員が同じだったらそれはもう人ではないだろう。

 

男が女を愛する時、という古い有名な歌がある。タイトルはそのもじりだけれど、わたし自身は、愛する対象が男でも女でも、気にしない。同性愛者を差別する人がいるけれど、そんなの人の自由でしょ!ほっとけよと思う。

ともかく愛する対象があるのはいいなと思う。なんなら人間でなくても、かまわない。物事でもいい。せっかく生まれてきたんだから、わたしはいっぱい愛して、生きていきたい。